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僕が誕生日が苦手な理由は、家族の宗教上の理由により誕生日を祝うことが禁忌だったからです。単に家族から祝って貰えないのとは話が違い、仮に友達に祝ってもらっても喜べないし、こちらから誰かの誕生日を祝うということもできない。何より、誕生日を迎えるたびに世間とのギャップを思い知らされて気が重くなるのです。
高校3年の時の忘れられない出来事があります。 普通科の高3の晩秋なんてそりゃ荒んでるわけで、その日はとりわけ人と話したくなかった。違うクラスにいる友達の女の子とすれ違おうとしたときも気づいてないフリをしようと目を伏せてました。その時彼女は唐突に言ったんです、「あ!誕生日おめでとう!明日だけど!」って。僕は心底ビックリしました。いまやクラス違うのに覚えててくれていて、しかも当日だとか翌日でもないのにわざわざ声をかけてくれるなんて、考えたこともなかった。僕にとっては本当に衝撃的でした。だからこそ「普通の人にとってそれだけ意味のある日なのに、嬉しいのに、それでも僕は苦笑いしか返せないんだなぁ」というやるせなさは未だに忘れられません。 近藤さん、元気かなぁ。
さて大学生~社会人となると友達との交流がSNS中心になるわけですが、SNS(特にfacebook)は誕生日を知らせる機能が付いていますよね。このせいで今まで以上に「誕生日」というものを意識せざるを得ず、必然的に向き合わなきゃいけなくなりました。非公開設定にすれば済むといえば済むのだけど、それでは僕のギャップ感は広がっていってしまう。この辺りのことは実家にいた頃はタブーにしがちだったのだけど、地元を離れてからは抱えていた苦手意識をツイッターでボヤくようにしたんです。そしたら考え方が変わるようなことを言ってもらえるようになりました。
特になるほどなと思ったのは「誰かの誕生日っていうのは、その人のことを一日考えてあげられる日なんです」って趣旨のことを教えてもらったとき。「そうか、記念日なんだ。確かにそれが本質だ。だったらテンションあがらなくてもアリだし、逆に誕生日を尊重することも当然だから、なにも悪いことなんかないんだ」って考えられるようになったんです。自分の中で納得できるようになったのが凄く大きかった。
もう一つ発見だったのは、実は誕生日が苦手なのは自分だけじゃなかったってこと(※経緯や理由は僕と違うと思う)。そのなかの一人は普段制作関係で凄くお世話になってるかたで、意外な共通点に嬉しさも感じました。最初それを教えてもらったときは「別に薄情じゃないっしょ~」みたいな具合に、励ましあいなのかおちょくり合いなのか分からない軽薄なやりとりをしたりして。ところがその人、僕がことし初めて誕生日を公開したときに「誕生日の人だ!とびきり豪華なケーキ食べても怒られない日ですよ!」ってメッセージをくれたんです。皆さんは変な言い方だって思うかもしれないけど、僕は感動して泣いちゃいました(笑) だって僕の感覚を共有してくれてるようにしか思えないんです。そして、それでもなお声をかけてくれる。そんな人がすぐそばにいたことがうれしかったんです。
たぶん僕はこれからも、誕生日を喜べないのだろうと思います。でも誕生日に貰った言葉や出会いは確実に僕の糧になっていて、その実感は恐らく他の人よりも強いです。だから僕は、これからの誕生日に期待を抱いちゃうようになりました。これはきっと成長なんだろうと思います。今更だけどね。ありがたいことです。
- 余談1:禁忌である根拠は聖書中の逸話を新興宗教なりに解釈したところにあります。あまり気分のいい話ではありませんので、関心のあるかただけこちらをご覧ください。
- 余談2:実は大学1年の時にはじめてまともに貰った誕生日プレゼントがあるんですが、なんだかんだ言って未だに使っています(保温マグ)。忘れてないってことは言っておきたい。
- 余談3:元カノ氏と誕生日が一日違いで一緒にケーキ食べたなんて話もありますが、ハナから上手く行っていなかったことも重なり楽しい話ではない。
- 余談4:先日の誕生日は実際にケーキを買ってみました。コンビニスイーツだけどね。
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