あいちトリエンナーレ、日本の大学、そういうものたちの性差問題について

あいちトリエンナーレの出展作家が男女比5:5になると発表され、大変テンションがあがってます。自分は名古屋出身、父が長者町(元メイン会場の問屋街)にて勤め上げた縁もあり毎回足を運んでいるわけですが、今回はいつも以上に楽しみです。みんなも行こうぜ、あいちトリエンナーレ。

さて今回のニュースをうけて、芸術界にジェンダー問題が根深く横たわっていたことに新鮮な驚きをもたれる方が沢山いらっしゃるようです。芸術ってなんとなく実力至上主義っぽいイメージがありますしね。また、女性作家を優遇するような措置に対し、あいちトリエンナーレのテーマ「情の時代」を皮肉って「お情けの時代」なんて揶揄する向きもあるとか。うまいこと言うなぁと正直思いましたが(笑)

なぜそういうことが生じるかについて、芸術学を少しだけかじった大学関係者としてメモ書きします。

美術界のジェンダー問題は構造的なもの

日本の美術界の場合、たとえば日展(日本最大の美術団体ですね)の不正審査問題が数年前に表面化し、コネとカネが支配する世界だったことがバレました…というか、少しでも美術に詳しい人なら常識だったようです。もともと師弟関係が生じやすいのが美術界ですし「実力さえあれば男女問わず活躍できる」環境があるなんて考えるほうがおかしいわけで、むしろセクハラも色々と想起されるところです。実際にアラーキー問題もありましたし。また、どんな若手作家でもギャラリーで個展を開くことをするわけですが、そこで別の作家やコレクターなどからストーカーじみた行為を受けるケースも多いようです。このあたりの実情は、同じく津田監督のインタビューでも述べられています。なかなか壮絶なので、ちょっと読むとしんどい人がいるかもしれません。

もうひとつ、美術大学に固有の問題があります。美術界におおきな影響力を持つのが美大。美大に限らないですが日本の大学はどこも男性優位になっていて、その根本原因のひとつに、大学教員になるには30代での実績が一番大事になることが挙げられます。大学院を修了して助手やアシスタント等をし、その後非正規の講師を経る、そのなかで実績を積んで正規採用を待つ…というキャリアパスが正統派になってくるのですが、そうすると出産・育児を諦めるか研究・制作を諦めるかの選択を迫られやすいのです(注1)。先日は上野千鶴子による東大入学式式辞が話題となりました。東大の男女比の問題は美大の状況とはかなり異なりますが(注2)、大学の男女比の問題は結果として社会の主導者層の男女比の問題につながってしまうので、あらゆる問題に通じてきます。


(2014年度・学校基本調査に基づき国立大学協会が制作した資料)
大学のジェンダー問題は客観的な統計資料がありまして、このグラフは国立大における芸術関係の研究者および大学院生の男女比を示しています(必ずしも芸術学部だけでなく、音楽学部や、教育学部美術専攻も含まれます)。たまに「女子芸大生は単に何も考えていないだけで作家志望ではない」なんて言説が聞かれますが、大学院生は女性のほうが6割台と多いことから、作家志望者数はやはり女性のほうが多いことが分かります。学部生の場合は必ずしもアーティスト志望とはいえませんが、大学院生となるとアーティスト志望者が多くなります。その割には、大学教員は男性のほうが多く、とりわけ教授は1割未満となっています。
https://www.janu.jp/active/txt6-2/201502houkoku_01.pdf#page=23

※追記:あくまで国立大学に限った統計ですので、私大も含めると教授割合はもう少し高いものと思われます。

なんにせよ問題含みなのは間違いがなく、女性作家はこういった壁と必然的に直面するわけですが、なにより「こんな壁が乗り越えられないのなら芸術家を名乗る資格はない」と言われちゃうあたりが一番の障壁に思えます。

美術の良しあしとどこからくるのか

確かに「美術のよしあしというのは、作品そのものの表現だけによって判断されるべきで、時代の雰囲気だとか作者の人気、ましてや男女だから云々で判断されるものではない」…ということは言われやすいことかもしれません。そういう発想も嫌いではないです。ダサいやつはダサいんだもの。

しかし実際のところ、現代美術ではデュシャンしかりバンクシーしかり「どれだけ美術界に異議申し立てをし、拡張に努めたか」に評価軸があるフシもあり(注3)、その意味では美術界に対するジェンダー批判を行った今回のあいちトリエンナーレは、むしろ凄くいまどきのアートっぽいなと思うわけです。すでにベネツィア・ビエンナーレではジェンダー平等を導入しているとのことですし、そういう文脈では「意図的に男女比を整える」のは最近のアートとしては正統派の振る舞いです。

また、20世紀は「芸術のための芸術」といわれるような、作品そのものだけで完成したものとして評価するタイプが主流でした(現代の美術館が殺風景な密室に設計されているのは、作品以外の風景を殺すためです 注4)。しかしアートが先鋭化してからはスベりやすくなってしまった等の反省もあり、独立性はあまり省みられなくなってきたところです。芸術が人々にどのような働きかけをし、何をもたらすかというところに注目が集まりやすくなり、トリエンナーレなんてのは町興しの側面があるイベントですからその典型事例です。ちなみに美術評論でも最近は社会と芸術の関係に焦点を当てたものがポンポン出ています。コレとか。買ったけど読めてません。時間をくれ。ほかにもコレとかあります。


注1:女性研究者への活動支援はここ10年ほど国策として是正に取り組んでいるところです。今は「ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ」として銘打って助成事業が展開されています。

注2:東大の男女比の偏りの最大の原因は理系の学生が多いからですが、文系でも男子に偏っています。この理由はいくらかあり、女性が東大を出ても課長どまりであること・私立男子中高一貫校出身者が東大生の多くを占めていることなどです。

注3:マルセル・デュシャンの「泉」、バンクシーの「Balloon Girl」はそれぞれ展覧会やオークションといった美術制度に対して行った悪戯であるが、いずれも歴史的作品として取り扱われている。

注4:今時の展示ではホワイトキューブと呼ばれる展示空間に美術作品を置くのが主流です。

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