永井純一『ロックフェスの社会学』の読書メモと、同人音楽との関係について備忘録

いまや結構たくさんの人がロックフェスティバル(以下フェスと呼称します)に遊びに行っていますが、かつて初回のフジロックは運営が破たんし「暴動」とまで言われたことがあることをご存知でしょうか。
あれからちょうど20年、どのような変化が現在の大衆化をもたらしたのでしょうか、そしてそれは何を意味するのでしょうか。

そんな問いに対する学術書が、先日出た「ロックフェスの社会学」です。



フェスは音楽を聴くフェスティバルではない

フェスというのはフェスティバルすなわち祭り・祝祭の略語から来ていますが、この「祝祭」というのは社会学でも古くから扱われていた概念のようです。なぜなら特定のコミュニティに属する人々を結びつけ活性化させるという意味において、まさに社会的なことがらだからです。ちなみに祭りの定義的事項は「周期性・共同体・聖性」にあるといいます。

ところが、フェスはこういう祭りではない。フェスはフェスティバルではない。

僕も一度「RADIO CRAZY」という関西の年末フェスに行ったことがあるんですが、忘れられない経験があります。ハンドルネームの名札付けた集団がフロアの一番後ろでグルグル踊り回っているのを見ました。野外イベントならばステージから離れた芝生でゴロゴロしてる人らがいることが想像に難くないと思いますが、室内フェスのフロアの一番後ろでサークルモッシュをキメる彼らはハッキリ言って異様でした。

ここで言いたいことは、一番後ろにいるということは「彼らは音楽好きだけど、フェスで音楽に集中しているとは限らない」ということです。踊っている以上はそのバンドのファンなんだとは思いますし、その時の出演者はTOTALFATというハードなパンクバンドでしたのでファンたちが俗にいうニワカだとも思えないのですが、それにも関わらず最後尾から離れないのは友達付き合いを優先してはぐれてしまわないようにしているから、そして演奏中でも会話ができる環境を求めているからです。これは一般的な音楽ファン像とはかなり異なりますし「音楽の祭り」というイメージからも差があります。

断片的に人々がつながるためのロック

そしてこちらのほうが著作中の論旨からしたら重要なのですが、フェスに一人で来てる人なんてほとんどいなくて大体の人が友達同士なりで来ています(僕は一人で行きました、愕然としました)。

ここで興味深いのは、恋人や友人同士ではない「フェス仲間」集団がたくさんいることです。著作中でもその存在について取材されていて、そのような集団が形成される経緯が分かります(ちなみに取材当時はmixiで形成されるケースも多かったらしい)。そして彼らは必ずしも普段から仲良しとは限らないこと、そして、緩いつながりを求めてフェスに集っているという状況があります。具体的に言うとネットで集って現地初対面、そして仲間が仲間を集めて現地形成というパターンが少なくないそうで、そういえば先ほど言及した変な集団もネットでの知り合いである様子でした、そして著作中の調査によればフェスが終わったあとに交流を深めるとも限らないそうです。つまり既存の共同体には依拠していない。

ここに、古い音楽イベントとは大きく違う特徴があります。SNSや共同体の有無だけではありません、イベントに参加することの目的意識の違いです。というのも古いイベントには現状の音楽シーンに一石を投じる目的が設定されていることが多く、来場者もそれに賛同する意識があったようです。ところが現在のフェスの参加者にとっては皆で参加すること自体が目的化していて、もはやどのような音楽を聴くかということはオマケの問題になっている人が少なくない(出演者未確定の状態で前売券が良く売れるのはその証左である)。

この状況に至る流れを、著作の副題にあるとおり「個人化社会における祝祭」として考察していくわけです。そこで歴史的背景や理論社会学的な説明も交えてみっちりと著作中で説明されておりますので、詳しいことについてはお買い上げいただくなり他の書評を探して読むなり図書館にリクエストするなりしてください。

なお僕はおおむね同意しましたが、「いま・ここ」だとか「データベース消費」だとかとか「ロスジェネ」などいった2000年代に流行った文化評論ワードでも説明がなされていて、この辺の用語で典型的に説明でき過ぎていてる点とか、本当にロスジェネ問題なのかは疑問だったりします(元々のコア層が過ごしやすいようにフェスの設計が更新され続けているせいで別世代からしたら新規参入が難しいのではないか説)。

フェスで奏でられるサウンドになんの意味がある?という疑問が

疑問点というか、この先まだ考えなきゃならんことは沢山あると思います。僕が一番気になるのは演奏やサウンドの力についてです。というのも、しばしば「フェス行ってる人らってもはや音楽聴いてないじゃん、あいつらホントに音楽好きなのかよ」という揶揄がなされていて、現に著作中でも来場者インタビューにてそれに近い発言は出てくるわけで、そうすると「音楽に力ってあるのかよ?要らねーじゃん」という哀しい疑義が生じてしまいかねません。所詮出会いのネタでしかないならロックフェスじゃなくて地ビールのイベントでいいじゃん、みたいな。

でも実際にはやはりフェスにはロックがもたらす狂乱があり、それが人をつなげるわけですよね、しかも適度に緩く。じゃあ今のロックはなぜ人々を適度に緩くつなぐことができているのか。ポップスのイベントだとかエレクトロのレイブイベントだと同じような状況が生まれ得ないのかどうか。著作中でも「ノリ」の身体性について言及がありましたが、果たしてそれは「軽やかな聴取」を可能にするという特徴だけにとどまるのだろうか。いわゆるフェス受けするバンドの演奏にはつながり形成においてどんな特徴があるのか。…ミュージシャンと参加者の相互作用についてはまだ掘り下げる余地がまだあるように思えます。

これの答えがさらにクリアになるならば芸術と人間の関係づくりのヒントにもなりますし、もっと踏み込めば「ロックの本質」みたいな話につながってくるかなと思います。これは別に哲学的論争に限ったものではなくて、たとえば「フェスで身体的なぶつかり合いから友情関係に発展した確率」だとか「参加者の規範意識の違いとミュージシャンのライブステージングの関係」など具体的な指標から説明できる気がします。

同人イベントは"祝祭"なのか"フェス"なのか、はたまた?

個人的にもう一つ考えておきたいことには、これは同人音楽イベントについて考えるときにどうヒントになるだろうかということです。というのも、同人音楽イベントの参加者はイマ・ココだけの関係とは違うんじゃないかと思っています。彼らは当然ながら音楽制作経験者・関係者が多いですし、仮に未経験でも最近は簡単に参入できてしまいますから、仲良くなる場合は後々共同制作だとかコンピレーションアルバムで名を連ねる関係につながるケースがあるので「緩いつながり」とは言えないわけで、少なくともフェスみたいに「同じ場所で同じ音楽を愛した経験」という関係とは違う次元なのではないかと。…いや、そりゃ即売会なんて全然別形式のイベントなので違って当たり前ではあるんですが。

この辺りは、昨年のM3で合同打ち上げに参加したときに関心を持ちました。数十人集まってて、顔見知りは2人しかいないし、話が合う人も別に多くない。形式上の共通点は音楽のオタクということだけだから、ここまでならば緩いつながりでしかない。けれども制作のために危ない橋を渡ったもの同士が今後の方針を語ったり、会話の途中で自分の作品をアピールしてみることは、個人化社会にさまよう不安定感を慰めることとは何か違う気がしてならないのです。

もしこの辺りで「フェス」と異なっているのであれば、同人音楽イベントはオタク系な文化であるにもかかわらず 「データベース消費」だとか「島宇宙」だとか2000年代サブカル評論で言われていたこととは違う視野が必要ですから、なかなか難しい議論になってきます。ただいずれにせよ、同人音楽における人間関係形成について興味がわいたことだけは間違いがないのです。どっからとっかかればいのだろうか。うーむ。エージェント理論から手を付けるか…?

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