「反表現規制なんてやめちまえ」的な反響が来た件について

先日書いた「表現規制反対とか言うなら萌えおこしなんてやめちまえ」がそれなりに閲覧されたようで、色々ご意見ご感想を拝見しました。

あの記事の趣旨は「公共事業のなかでもとりわけ多くの利害関係者が絡む町おこしでは社会的な配慮のある表現(PC)が求められるのは当たり前であって、そこで問題が起きた時に”表現の自由”で開き直るのは厳しい」という話なんですが…実は反響の多くは別の文脈だったんです。

先ほどの記事の最後でも若干触れたのですが、のうりんにせよガルパンにせよ、ネット上の暴言が目に余る一件でもありました。この「目に余るネット上の暴言を前に、"表現の自由"を考え直さなければいけないのではないか」という、反反表現規制の意識から記事が支持されたのです。

僕は「非実在青少年問題」が起きたころから表現の自由の問題には関心を寄せていまして、そしてハードコアな音楽だとかマンガだとか現代アートだとかが好きな身として、そして音楽文化論をかじっている身として、安易に表現規制を進めることに反対する立場です(歌詞の自主規制とかホントに笑えない現状が有りますからね)。しかし、先ほどの問題意識から表現の自由を再考することについては、致し方ないのかなとも思いつつあります。表現の自由というルールが悪用されている昨今では「表現の自由を守るために表現の自由を規制する」という逆説も成立しうるからです。

言論はプロレスに例えられることがあります。論理の攻防戦ですね。しかし本物のプロレスには、ルールとレフェリーがあり、そして特殊な訓練が必要です。簡単にいえば、受け身をとれない素人を相手したり、危険な技をかけてはいけないわけですね。言論にも似たようにルールや作法や倫理があり、科学界や報道ではそれらがガイドライン化されています。これらを守らないと信頼性や世論喚起力が崩壊してしまうので 「表現の自由を守るために表現を規制する」ことがごく自然に行われています。

さて、ネット上の言論はどうなっているでしょうか。論理の攻防をはみ出して集団での人格攻撃は当たり前、プライバシー侵害、コラ画像こしらえてデマ拡散などなど、プロレスに例えるなら「選手生命を奪いかねない危険な技」が頻発していますよね。その結果ヘイトスピーチを筆頭とした社会問題が起きていますし、SNSアカウントを閉鎖に追い込むなどの個人的な問題も含めれば山のように他者への抑圧が発生しています。そのくせ当の本人は誰かをおちょくってるだけのつもりだったりするんですけど。ルールとレフェリーが存在していない素人試合ですもん、当然です。この状況下でSNS運営各社が新ガイドラインをつくって投稿内容の規制を推進するのは不可避でしょう(ニコニコ動画ですらそうししましたからねぇ)。

ルール変更で試合がつまらなくなるスポーツもあるのと同じで、ネット文化の自由主義をホイホイ諦めていいのかという思いはあります。しかし、ルールが悪用されれば改定が検討されてしかるべきでしょう。ルール違反よりも、ルールの穴抜けのほうがガチで世間を揺るがす事件になりうるのです。

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